ティルバンナーマライのラマナ・アシュラムにはじめて訪れたのは 2014 年の 3月のことです。ラマナ・アシュラムのことはそこからさらに10年くらい前に、当時のヨガの先生から伺ってずっと気になっていました。心の片隅に、いつかそこに行ってみたいという強い気持ちがありました。
その頃、人生は突然の大嵐に見舞われ転覆し、非常に混沌としていました。すがるような気持ちで、スピリチュアル関連の本を読み漁っていたのですが、現代社会の競争マインドをそのまま持ち込んでおりましたので、「もっともっと知りたい、神秘的なことを体験したい!」と心は常に忙しく動き回っておりました。
アシュラムのホールに足を踏み入れたとき、「やっと来れた!」という感動がこみ上げ、どっと涙が溢れてきました。そしてこのアシュラムのホールに座っている間だけは忙しいマインドは少し大人しくなり「あちこち行かなくても、ここに居るだけで大丈夫なんだ。」と何故かストンと思うことができました。
帰国して、今まではちんぷんかんぷんだったマハルシの本を開くと、ハッと腑に落ちるような感覚がして、以来本を開くたびに、少しずつ少しずつ新しい理解が起こり続けています。それと共に現実的な変容のプロセスも、薄皮をはがすように続いているように感じます。
その後も何回かアシュラムを訪れましたが、2018 年に長く続いていたインドとの縁が急に切れてしまいました。一人で向き合う時期が来たのだろうと思いつつ、支えを失ったように感じました。さらに世界はコロナ禍にも見舞われて、次にティルバンナーマライに行ける日は一体いつだろうと寂しく感じていた頃に、ラマナ・アルールの存在を知りました。
そこは都心のマンションの一角だと言うのに、不思議なほどに、インドのラマナ・アシュラムと同じ静寂が流れていました。この強い既視感は何なのだろうと考えていたら、どうやら「香り」のようです。目の前に置かれた小さなオイルランプ、このオイルの香りか、あるいはお香でしょうか?アシュラムと同じ香りが流れているのです。
香りのせいなのか、目を閉じて座ると、アシュラムの風景がありありと脳裏に浮かび上がって来ました。通りの喧噪や人々が行き交う様子、門をくぐると大木があって、見上げると聖山アルナーチャラが見えます。聖廟のあるサマーディーホールに足を進め、大きなマハルシの写真にお辞儀をし、他の巡礼者と共に廟の周りを歩く...脇の扉から瞑想をするオールドホールに向かい、金網の張った扉を静かに開けると、黒曜石の床、長椅子にマハルシの絵が飾られていて、人々はそこに向かって静かに座しています。自分も彼らに混じって瞑想をします。
ラマナアルールの部屋の外から聞こえる街の音すら、インドのざわめきに思え、長い夢を見ていたような心地で、外に出ました。不思議と自分の中心がすっと整っている感じがあり、帰宅時の喧騒の中でも、心の奥に静けさの種が小さく植えられているようでした。
ずっと忘れていた何かを思い出したような気持ちになりました。その何かこそ、アシュラムのホールに座っているとき、沈黙を通じて恩寵が語っていたことなのかもしれません。そのエネルギーが時空を超えて、あの都心の一室に流れ込んでいる...... 臨在が本当に在るのだということを改めて知らされました。
そのことが今、探求の大きな支えになっているように感じます。なぜならそれは本当に、常にそこにあり、インドに行っても、行かなくても大丈夫なのですから。